序論:2025年、広告業界を再定義する3つの潮流
2025年の広告業界は、単なる漸進的な変化ではなく、構造的な地殻変動の渦中にある。本レポートは、Adweekが報じ、Magna、WPP Media、Madison and Wallといった主要な広告予測機関が発表した2025年の市場に関する3つの重要な予測を起点とする 。これらの予測は、個別の事象として捉えるべきではない。むしろ、業界全体を根底から揺るがす、より大きな変革の兆候として相互に関連し合っている。
本分析が明らかにするのは、これら3つの予測―リテールメディアの台頭、コネクテッドTV(CTV)におけるプラットフォーム戦争、そして米国広告市場の成長鈍化―が、すべて共通の強力な原動力によって引き起こされているという事実である。その原動力とは、以下の4つの不可逆的なメガトレンドの合流点に他ならない。
- ファーストパーティデータ経済への戦略的移行:プライバシー保護意識の高まりと技術的な変化に伴い、広告主は信頼性が高く、規制に準拠したデータソースへの移行を余儀なくされている。
- 人工知知能(AI)の全面的統合:パーソナライゼーションの高度化と運用効率の最大化を目的として、AIが広告のあらゆる側面に浸透している。
- クローズドループ・アトリビューションへの渇望:広告投資と販売成果を直接的に結びつける、明確で反論の余地のない効果測定への要求が、かつてないほど高まっている。
- 「ウォールドガーデン(壁に囲まれた庭)」の支配力強化とそれに伴う力学:主要なテクノロジープラットフォームへの権力集中が加速し、競争環境と規制当局の監視が新たな局面を迎えている。
本レポートは、これらの潮流を深く理解するための羅針盤となることを目指す。まず、3つの各予測を詳細に分解し、その背景にあるデータと力学を明らかにする。次に、それらを横断的に分析し、根底にあるメガトレンドがどのように相互作用しているかを解き明かす。そして最後に、この複雑でダイナミックな2025年以降の市場環境を勝ち抜くための、具体的かつ実行可能な戦略的提言を提示する。マーケティングの意思決定者は、もはや過去の成功法則に安住することは許されない。未来を形作るこれらの構造変化を正確に読み解き、自社の戦略を再構築することが急務となっている。
予測1:リテールメディアの覇権 ― テレビ広告を超える巨大市場の誕生と日本への影響
2025年、広告業界の勢力図は歴史的な転換点を迎える。長年にわたりメディアの王座に君臨してきたテレビ広告が、その地位を新たな挑戦者に明け渡すことになる。その挑戦者こそが、リテールメディアである。
歴史的な転換点:市場規模とその重要性
2025年における最も衝撃的な予測の一つは、世界の広告費において、リテールメディアへの支出が初めてテレビ広告を上回るという点である 。これは単なる量的変化ではなく、広告メディアのヒエラルキーが根本的に覆ることを意味する質的な変化である。
IPG Mediabrands傘下のメディア投資・情報企業であるMagnaは、この地殻変動を具体的な数値で示している。同社の推計によれば、リテールメディアネットワーク(RMN)は2025年に1,630億ドルもの収益を生み出すと予測されている 。他の予測機関も同様の成長を見込んでおり、市場規模は1,795億ドルに達するとの見方もある 。これは、リテールメディアがニッチな広告手法から、広告業界全体の成長を牽引する巨大な中核市場へと変貌を遂げたことを明確に示している。この規模は、もはや無視できる存在ではなく、すべてのブランドにとって最優先で取り組むべき戦略的領域となったことを物語っている。
爆発的成長のエンジン:RMNの価値提案を分解する
リテールメディアの爆発的な成長は、偶然の産物ではない。それは、現代のマーケティングが直面する最も根源的な課題を解決する、強力な価値提案に基づいている。その成長を支える4つのエンジンを分解することで、RMNの本質的な強みが明らかになる。
1. ファーストパーティデータという至宝
プライバシー保護を重視する潮流が強まる中で、広告主は信頼できる新たなデータソースを渇望している。RMNは、この渇望に対する最も強力な答えを提供する。RMNは、小売業者が顧客との直接的な関係を通じて収集した、質の高いファーストパーティデータを基盤としている。これには、購入履歴、ウェブサイト上の閲覧行動、検索データ、ロイヤルティプログラムへの参加情報といった、消費者の購買意図に直結する決定的な情報が含まれる 。これらのデータは、外部から推測されたサードパーティデータとは異なり、顧客から直接得られるため、その正確性と信頼性は群を抜いている。GoogleとBain & Companyの調査によれば、ファーストパーティデータを効果的に活用する企業は、そうでない企業と比較して2.9倍もの収益を上げているという事実が、その価値を雄弁に物語っている 。さらに、これらのデータは顧客の同意に基づいて収集されるため、GDPRやCCPAといった厳格化するプライバシー規制にも準拠しやすいという大きな利点を持つ。
2. クローズドループ・アトリビューションという聖杯
マーケティング担当者が長年追い求めてきた「聖杯」、すなわち広告投資対効果(ROAS)の明確な証明を、RMNは現実のものにする。RMNの最大の強みの一つは、広告接触(オンラインでの広告閲覧)と購買行動(オンラインまたは実店舗での商品購入)を直接的に結びつける「クローズドループ・アトリビューション」を実現できる点にある 。従来のメディアでは、広告が実際の売上にどれだけ貢献したかを測定することは困難であり、多くの場合、推計に頼らざるを得なかった。しかしRMNでは、「広告Aを見た顧客が、3日後に店舗Bで商品Cを購入した」というレベルでの追跡が可能になる。Forrester Researchによると、すでに小売業者の67%がこのクローズドループ・アトリビューションを活用しており、広告費が売上に直結していることを明確に証明できるため、マーケティング予算の正当性を揺るぎないものにしている。
3. AIが実現する超パーソナライゼーション
RMNは、単なるターゲティング広告の延長線上にはない。人工知能(AI)と機械学習の活用により、RMNは「ハイパーパーソナライゼーション」の領域へと進化している 。AIアルゴリズムは、膨大なファーストパーティデータをリアルタイムで分析し、個々の消費者の次の購買行動を予測する。そして、その予測に基づいて、一人ひとりの顧客に最適化された広告クリエイティブやオファーを動的に生成・配信する 。これにより、「同じ広告の繰り返し」といった消費者の不満を解消し、エンゲージメントとコンバージョン率を劇的に向上させることが可能になる。もはやインテリジェentなパーソナライゼーションは選択肢ではなく、効果的なリテールマーケティングの標準装備となっている 。
4. オムニチャネルによる顧客体験の統合
RMNのエコシステムは、小売業者のウェブサイトだけに留まらない。物理的な店舗内に設置されたデジタルサイネージ(DOOH)、顧客が利用するモバイルアプリ、さらには小売業者のデータを利用して外部のウェブサイトやCTVプラットフォームに配信されるオフサイト広告まで、その範囲はオムニチャネルに及ぶ 。これにより、ブランドは顧客の購買ジャーニーにおけるあらゆる接点で一貫したメッセージを届け、オンラインとオフラインの垣根を越えたシームレスな顧客体験を構築することができる 。Forrester Researchの調査では、小売業者の66%がメディア支出を最適化するためにオムニチャネル・リテール・ソリューションに投資していることが示されており、この統合がいかに重要視されているかがわかる。
C. 競争環境:主要プレイヤーと成功事例
リテールメディア市場は、黎明期を過ぎ、すでに巨大なプレイヤーが覇権を争う競争の時代に突入している。市場を牽引するのは、ECの巨人Amazonである。同社の広告事業は2023年に470億ドルの売上を記録し、他の米国拠点のRMNすべてを合わせたよりも大きいと推定されるほどの圧倒的な存在感を放っている 。それに続くのが、世界最大の小売業者であるWalmartが展開するWalmart Connectであり、北米を中心に急速な成長を遂げている。
しかし、この市場は巨人だけのものではない。多様なセクターの小売業者が、それぞれの強みを活かして強力なRMNを構築している。米国の食品・薬品小売大手Albertsons 、家電量販店のBest Buy 、そしてCVSと並ぶドラッグストアチェーンのWalgreens などが、独自のデータと顧客基盤を武器に、ブランドにとって魅力的な広告プラットフォームを提供している。特に、特定の商品カテゴリーに強みを持つ小売業者のRMNは、その分野のブランドにとって極めて価値の高い広告媒体となる。
その成功を証明する具体的な事例も豊富に存在する。
- ケーススタディ:Walgreens Advertising Group (wag) ドラッグストアチェーンWalgreensがEpsilon社との提携により立ち上げたRMN「wag」は、その驚異的な成果によって業界の注目を集めた。ある四半期だけで、実に49ものブランドがwagを通じてキャンペーンを実施。その結果、広告主は平均して5ドル対1ドルという高いROASを達成し、Walgreens自身も同四半期に1,000万ドルの広告収益を上げた 。これは、RMNが小売業者にとって新たな高収益事業となり得ることを明確に示している。
- ケーススタディ:Kroger Precision Marketing (KPM) 米国最大級のスーパーマーケットチェーンであるKrogerが展開する「KPM」は、特に消費財(CPG)ブランドにとってのRMNの価値を証明した。ある大手パーソナルケアブランドが新商品のシャンプーとコンディショナーの発売に際してKPMを活用したところ、広告に接触した世帯は、接触しなかった世帯と比較して11%高い売上を記録した(インクリメンタル・セールスリフト)。さらに、このキャンペーンは4ドル対1ドルのROASを達成し、KPMが単なる広告露出に留まらず、測定可能で純増的なビジネス成長を直接的に牽引する力を持つことを実証した。
これらの事例は、RMNがもはや理論上の可能性ではなく、現実のビジネス成果を生み出す強力なエンジンであることを示している。
Table 1: Comparative Analysis of Major Global Retail Media Networks | |||||
項目 | Amazon Ads | Walmart Connect | Kroger Precision Marketing (KPM) | Walgreens Advertising Group (wag) | Best Buy Ads |
スケール | 世界最大のECプラットフォーム、数億人のアクティブ顧客 | 米国最大の小売業者、広範な店舗網とオンライン顧客基盤 | 3,700万人以上のロイヤルティ会員、毎週3,500万人の買い物客 | 巨大なドラッグストアチェーン、広範なロイヤルティプログラム会員 | 米国を代表する家電量販店、専門性の高い顧客基盤 |
主要データソース | オンライン購買履歴、閲覧・検索行動、Prime Video視聴データ、Twitch視聴データ | オンラインおよび店舗での購買データ、アプリ利用データ | ロイヤルティカードに基づく実店舗での購買データ(SKUレベル) | 店舗およびオンラインでの購買データ、EpsilonのCORE IDとの連携 | オンラインおよび店舗での購買データ、製品登録データ |
主要広告フォーマット | スポンサードプロダクト、スポンサードブランド、ディスプレイ広告、Amazon DSP経由のCTV広告 | スポンサードプロダクト、オンサイトディスプレイ、オフサイトプログラマティック、インストアDOOH | オンサイト広告、オフサイト広告(CTV、ソーシャル)、インストアDOOH、クーポン | オンサイトディスプレイ、オフサイトターゲティング、インストアプロモーション | 検索広告、ディスプレイ広告、ビデオ広告、ソーシャル広告 |
主な差別化要因 | EC、広告、物流、コンテンツを網羅する完全なエコシステム。圧倒的なデータ量とリーチ | オンラインとオフラインを融合したオムニチャネル戦略と、米国全土をカバーする広大な顧客接点 | CPG(消費財)に特化した購買データとクローズドループ・アトリビューションの精度 | 健康・ウェルネス分野に特化した顧客データと、Epsilonとの提携による高度なIDソリューション | 家電・テクノロジー分野に特化した購買意欲の高いオーディエンスへのリーチ |
日本のリテールメディア市場:国内の力学と将来展望
日本の広告市場も、グローバルな潮流と軌を一にして、リテールメディアが急速にその存在感を高めている。世界市場が2025年に約1,795億ドル規模に達するという予測は 、日本市場にも巨大な成長ポテンシャルが存在することを示唆している。日本の広告主にとって、リテールメディアはもはや一過性のブームではなく、メディアプランの中核に据えるべき戦略的要素となっている。
日本の市場では、グローバルなトレンドに加えて、いくつかの独自の動向が見られる。その一つが「リテールメディア連合」の形成である 。これは、単独ではAmazonのような巨大プラットフォームに対抗することが難しい複数の小売業者が、それぞれのファーストパーティデータを持ち寄り、共同で広告プラットフォームを運営する動きである。これにより、個々の小売業者の弱点であった「スケール(規模)」を補い、広告主に対してより魅力的なリーチを提供することが可能になる。この連合の動きは、競争が激化する市場における新たな協力と競争の形として、今後さらに加速する可能性がある。
また、日本の消費者の特性も市場の方向性を左右する重要な要素である。日本の消費者は、単に関連性の高い広告が表示されるだけでなく、個々の嗜好や文脈に深く寄り添った、高度なパーソナライゼーションを求める傾向が強い 。KPMGの調査では、日本の顧客体験において「パーソナライズ」が最も重要な要素として挙げられており、この期待に応えることがRMNの成功の鍵を握る。
今後の見通しとして、2025年の日本市場では、RMNの広告フォーマットがさらに多様化することが予測される 。オンサイト広告に加え、小売業者のデータを活用したオフサイト(外部サイト)へのプログラマティック広告配信の重要性が増し、アドテクノロジー企業は、ブランドが最適なタイミングで消費者にアプローチできる、より洗練されたソリューションを提供していくことになるだろう。
重大なハードル:黎明期市場の課題
リテールメディア市場は輝かしい未来を約束されている一方で、その急成長の裏には、広告主と小売業者の双方が乗り越えなければならない重大な課題が山積している。
1. 標準化の欠如という最大の障壁
広告主が直面する最も深刻な問題は、測定基準の標準化が欠如していることである 。ANA(米国広告主協会)の調査では、実に55%のマーケティング担当者がこれを最大の課題として挙げている 。各RMNが独自の指標やレポーティングシステムを採用しているため、広告主は異なるRMN間でのキャンペーン成果を客観的に比較することが極めて困難になっている。これにより、予算配分の最適化が妨げられ、投資判断の根拠が曖昧になるという問題が生じている。
2. 運用の複雑性とフラグメンテーション
市場の成長に伴い、広告主が取引すべきRMNの数は増加の一途をたどっている。しかし、これらのRMNはそれぞれが独立した「サイロ」として存在しており、キャンペーンを横断的に管理するための統一されたプラットフォームはまだ十分に普及していない 。その結果、広告運用担当者は、数十もの異なる管理画面を個別に操作し、レポートを手作業で統合するといった、非効率的でリソースを大量に消費する作業を強いられている。この運用上の負担は、RMN活用の大きな障壁となっている。
3. プライバシーとデータガバナンスの隘路
RMNの強みであるファーストパーティデータは、同時にそのアキレス腱にもなり得る。GDPRやCCPAに代表されるプライバシー保護規制は、データの収集・利用方法に厳格な制約を課している 。小売業者は、顧客から明確な同意(オプトイン)を得なければならず、これがオーディエンスの規模を制限する可能性がある。また、収集したデータの安全性を確保するための厳格なセキュリティ体制の構築も不可欠であり、データガバナンスはRMN運営における継続的な課題となる。
4. 人材とマインドセットの転換
成功するRMNを構築するためには、小売業者が従来の「商品を売る」というマインドセットから、「メディアを運営し、オーディエンスを売る」というメディアパブリッシャーとしてのマインドセットへと転換する必要がある 。これは、単なる戦術の変更ではなく、組織文化そのものの変革を要求する。さらに、この変革を推進するためには、データサイエンス、広告運用(AdOps)、メディアセールスといった、従来の小売業には存在しなかった専門的なスキルを持つ人材の確保・育成が不可欠となる 。多くの小売業者にとって、この人材と組織の変革は、技術的な課題以上に困難なものとなる可能性がある。
これらの課題は、リテールメディアが真に成熟した広告市場となるために乗り越えなければならない成長痛である。そして、これらの課題を解決する過程で、新たなビジネスモデルやテクノロジーが生まれてくることもまた、確実であろう。
この市場の急成長は、単なる広告トレンドの変化に留まらない。それは、小売業のビジネスモデルそのものを根底から変革する、強力な自己増殖サイクルを生み出している。この現象を理解することが、未来の競争環境を読み解く鍵となる。
まず、従来の小売業は、一般的に利益率が低いビジネスである。一方で、広告事業は非常に利益率が高い。RMNのグロス利益率は平均で70%にも達するとされる 。この高収益な広告事業から得られる潤沢なキャッシュフローが、小売業のコアビジネスに再投資される。WalmartのCFOが指摘するように、広告収益は、消費者に提供する商品の価格を低く抑えるために戦略的に活用されている。
ここに、強力な「フライホイール(はずみ車)」が回り始める。
- RMNが生み出す高マージンの広告収益が、小売業の財務基盤を強化する。
- その収益を原資に、商品価格の引き下げや顧客体験の向上(例:迅速な配送、優れた接客)といった、コアな小売事業への投資が可能になる。
- 価格の魅力と優れた体験は、より多くの買い物客を引きつける。顧客基盤が拡大する。
- 増えた顧客からは、より多くの、そしてより質の高いファーストパーティデータが収集される。
- このリッチなデータは、RMNのターゲティング精度やパーソナライゼーション能力を飛躍的に向上させ、広告主にとってのプラットフォームの価値を高める。
- 価値が高まったRMNには、さらに多くの広告主が集まり、より多くの広告収益がもたらされる。
このサイクルが繰り返されることで、フライホイールは勢いを増し、自己増殖的に成長していく。この力学は、小売業界の競争のルールを根本的に書き換える。もはや小売業者は、品揃えや価格だけで競争しているのではない。彼らは、自社が抱えるオーディエンスデータの価値と、メディアプラットフォームとしての洗練度においても競争しているのである。
この変化は、ブランドにとって極めて重大な意味を持つ。これまで単なる「販売チャネル」であった小売パートナーは、今や「重要なメディアパートナー」へと変貌を遂げた。これは、ブランド側が従来「トレードマーケティング(流通向け販促)」や「Co-op広告(協賛広告)」として計上してきた予算のあり方を、根本から見直す必要があることを示唆している。ブランドと小売業者の関係は、商品の売買という単線的なものから、データとメディアを介した、より複雑で戦略的なパートナーシップへと進化せざるを得ないのである。
予測2:コネクテッドTV(CTV)広告の主戦場 ― Amazon DSP 対 The Trade Desk
2025年の広告業界におけるもう一つの地殻変動は、デジタル広告費の中でも特に急成長を遂げているコネクテッドTV(CTV)の領域で起きている。ここでは、独立系DSP(デマンドサイドプラットフォーム)の雄であるThe Trade Desk(TTD)から、ECの巨人Amazonが提供するAmazon DSPへと、大規模な広告予算の移行が進行している。この動きは、単なるプラットフォーム間の競争を超え、デジタル広告の未来を左右する二つの異なる思想の衝突を象徴している。
A. 巨額の予算移行:シフトの定量化
2025年の広告市場における重要な予測の一つは、広告主、特に大手ブランドが、数百万ドル規模の広告予算をThe Trade DeskからAmazon DSPへと積極的にシフトさせているという事実である 。この動きは、成長著しいCTVセグメントにおいて特に顕著である。
この予算移行は、もはや個別の事例ではなく、業界全体の潮流となっている。その象徴的な出来事として、あるグローバルな自動車ブランドが、2025年第1四半期までに、年間約8000万ドルもの広告費をThe Trade DeskからAmazonのプラットフォームへ移行したと報じられている 。この一件は、単なる予算の再配分ではない。これは、大手広告主がCTV広告の戦略的パートナーとして、Amazonの価値を再評価し、大きな賭けに出たことを示すシグナルである。この大規模な資金移動の裏には、Amazonが提供する抗いがたい魅力と、デジタル広告市場の構造的な変化が存在する。
Amazonの武器庫:「ウォールドガーデン」の抗いがたい魅力
Amazon DSPが広告主を強力に引きつける理由は、同社が築き上げた「ウォールドガーデン」の持つ圧倒的な競争優位性にある。その武器は多岐にわたるが、特に以下の4点が決定的な強みとなっている。
1. 破壊的な価格戦略
Amazonの最も直接的で強力な武器は、その攻撃的な価格設定である。特定のプログラマティック取引において、Amazonが請求する手数料は広告費のわずか1%という低水準に設定されていることがある 。これは、通常7%から15%のテイクレート(手数料率)を課すThe Trade Deskと比較して、圧倒的なコスト優位性を持つ。ROIの最大化を至上命題とするマーケティング担当者にとって、このコスト効率の高さは極めて魅力的な提案であり、予算をシフトさせる強力な動機となっている。
2. 独占的なプレミアム在庫と圧倒的なリーチ
Amazonは、他ではアクセス不可能な独占的かつプレミアムな広告在庫の宝庫である。これには、多くの視聴者を集めるNFL(ナショナル・フットボール・リーグ)の独占ライブ配信、広告付きプランの導入で急速にユーザーを拡大しているPrime Video、ゲーム配信プラットフォームのTwitch、映画情報サイトのIMDbなどが含まれる 。さらに、AmazonはRokuとの戦略的パートナーシップを締結し、これにより米国の全CTV世帯の80%以上にリーチできる巨大な広告配信網を確立した 。この広範かつ質の高いリーチは、The Trade Deskが単独では提供し得ない、Amazonならではの強みである。
3. 比類なき購買データ
Amazonの「スーパーパワー」と称されるべきは、その膨大なファーストパーティの購買データである。Amazonは、数億人の顧客が「何を検索し、何を購入し、何を視聴したか」という、購買意図に直結する最も価値の高いデータを保有している。Amazon DSPは、このデータを活用し、実際の購買行動やライフスタイル、興味関心に基づいて、驚異的な精度でオーディエンスをターゲティングすることを可能にする 。これは、オープンなインターネット上の行動データに依存するThe Trade Deskには真似のできない、決定的な差別化要因となっている。
4. 統合されたエコシステムとクローズドループ効果
特にAmazon上で商品を販売するブランド(エンデミックブランド)にとって、Amazon DSPは究極のソリューションを提供する。広告の閲覧から商品購入までがAmazonのエコシステム内で完結するため、広告効果測定はシームレスかつクローズドループで行われる 。ある自動車ブランドがAmazonへの予算移行を決めた理由の一つに、Amazon上で自社の自動車を販売できるようになったことが挙げられており 、広告と販売が直結したエコシステムの強力さを物語っている。
The Trade Deskの反撃:オープンインターネットの擁護者
Amazonの猛攻に対し、The Trade Deskもただ手をこまねいているわけではない。同社は、「オープンインターネットの擁護者」という明確なアイデンティティを掲げ、Amazonのウォールドガーデン戦略とは対極にある価値を提供することで対抗している。
1. 中立性という絶対的な価値
The Trade Deskの核となる価値提案は、その独立性と中立性にある。同社は自社でメディアを一切保有していないため、特定のメディアやプラットフォームに誘導するといった利益相反の懸念がない 。広告主の利益を第一に考え、オープンインターネット上に存在するあらゆる広告在庫の中から、最も効果的なものを客観的に買い付けることができる。この透明性と公平性は、Amazonのような巨大プラットフォームの「ブラックボックス」化を懸念し、自社のデータを囲い込まれることを嫌うブランドにとって、極めて重要な意味を持つ。
2. テクノロジーへの飽くなき投資
The Trade Deskは、テクノロジーこそが競争の源泉であると理解している。その象徴が、AIを駆使してキャンペーンの効率と効果を最大化する次世代プラットフォーム「Kokai」への大規模な投資である 。さらに、同社は新たなプライバシー環境におけるIDソリューションとして、オープンソースの共通ID「Unified ID 2.0(UID2)」の開発と普及を主導している 。これは、特定の企業に依存しない、オープンなインターネットのための共通基盤を構築しようとする野心的な試みであり、Amazonの閉じたエコシステムに対する明確なアンチテーゼとなっている。
3. 戦略的パートナーシップによる対抗軸の形成
The Trade Deskは、Amazonのデータアドバンテージに対抗するため、戦略的な提携を積極的に進めている。その最たる例が、Walmartとのパートナーシップである 。この提携により、広告主はThe Trade Deskのプラットフォーム上で、Walmartが保有する膨大な実店舗およびオンラインの購買データを活用してターゲティングを行うことが可能になった。これは、Amazonの購買データに対抗しうる、強力な「オープンなリテールデータ」の選択肢を広告主に提供するものであり、The Trade Deskがオープンインターネット陣営のハブとしての役割を担おうとしていることを示している。
D. 戦略家のためのプレイブック:デュアルDSPアプローチ
このAmazonとThe Trade Deskの対立構造の中で、洗練された広告主、特にCPG(消費財)セクターのブランドは、どちらか一方を選択するという二者択一のアプローチを取ってはいない。彼らは、両プラットフォームの特性を深く理解し、それぞれの長所を最大限に活用する「二刀流(Bifurcated Strategy)」とも言うべき、高度な戦略を採用している。
この戦略の核心は、マーケティングファネルに応じた役割分担にある。
- The Trade Deskをアッパーファネル(認知・興味喚起)に活用 The Trade Deskが持つオープンインターネット全域への広範なリーチを活かし、ブランドの認知度向上や、新たな見込み顧客の発見(プロスペクティング)を目的としたキャンペーンを展開する 。ここでは、特定のプラットフォームに縛られない、幅広いオーディエンスへのリーチが最優先される。
- Amazon DSPをロワーファネル(比較検討・購買)に活用 Amazonが保有する比類なき購買データを活用し、購買意欲が顕在化した顧客層に対して、コンバージョン(購買)を直接的に促すキャンペーンを展開する 。特に、Amazon上で商品を販売しているブランドにとっては、広告接触から購買までをシームレスに繋ぎ、ROASを最大化するための強力な武器となる。
このように、両DSPを「敵対するもの」ではなく「補完的なツール」として捉え、マーケティング目標に応じて戦略的に使い分けることが、2025年における最も賢明なアプローチと言えるだろう。
Table 2: Strategic Comparison of Demand-Side Platforms: Amazon DSP vs. The Trade Desk | ||
項目 | Amazon DSP | The Trade Desk (TTD) |
コアバリュー | 購買データに基づくクローズドループ・エコシステム | オープンインターネットにおける独立・中立なメディアバイイング |
手数料構造 | 低い(一部で1%など)。コスト効率が高い | 比較的高い(通常7-15%)。価値とテクノロジーで勝負 |
主要データソース | Amazon内のファーストパーティ購買・閲覧・視聴データ | オープンインターネット上のサードパーティデータ、パブリッシャーデータ、UID2 |
主要広告在庫 | Prime Video、NFL、Twitch等の独占コンテンツ、Amazonサイト、Roku提携在庫 | オープンインターネット上のあらゆるパブリッシャー、CTV、オーディオ、ディスプレイ在庫 |
理想的な用途 | ロワーファネルの刈り取り、コンバージョン促進、Amazon販売ブランド(エンデミック) | アッパーファネルの認知獲得、新規顧客へのリーチ(プロスペクティング)、非エンデミックブランド |
主要な制約 | ウォールドガーデンによるデータの不透明性、プラットフォームへの依存リスク | Amazonの購買データへの直接アクセス不可、新たなプライバシー環境への対応(UID2の普及が鍵) |
日本のCTV市場:成長する戦場
このDSP間の競争は、日本の広告主にとっても他人事ではない。日本のコネクテッドTV(CTV)広告市場は、まさに急成長の真っ只中にあるからだ。SMN株式会社の調査によれば、日本のCTV広告市場規模は、2021年の344億円から飛躍的な成長を遂げ、2025年には1,695億円に達すると予測されている。
この成長の背景には、スマートテレビやストリーミングデバイス(例:Amazon Fire TV Stick, Google Chromecast)の普及がある 。さらに、TVerに代表される「見逃し配信」サービスの利用拡大や、ABEMAのようなインターネットテレビサービスの人気が、視聴者のテレビ視聴スタイルをリニア放送からオンデマンドへとシフトさせている 。この視聴者行動の変化は、広告予算が従来の地上波テレビからCTVへと移行する大きな流れを生み出している。このように拡大を続ける日本市場において、どのDSPを戦略的パートナーとして選択するかは、広告主の将来の競争力を左右する、極めて重要な意思決定となる。
このCTV広告を巡るAmazonとThe Trade Deskの戦いは、単なる二つの企業のシェア争いではない。それは、インターネットの未来を占う、二つの異なるイデオロギーの代理戦争とも言える。
一方のAmazonは、垂直統合モデルの完成形を体現している。独占的なコンテンツ(供給)、比類なき購買データ(ターゲティング)、巨大なリテールプラットフォーム(販売時点)、そして破壊的な価格設定(コスト)という、広告におけるバリューチェーンのすべてを自社エコシステム内に取り込んでいる 。これは、外部からはその内部を正確に測定することも、容易に侵入することも難しい「ウォールドガーデン」の究極形である。広告主にとっては、非常に効率的でクローズドループなシステムという抗いがたい魅力を持つ。
もう一方のThe Trade Deskの存在意義は、このウォールドガーデンに対するオルタナティブ(代替案)であることそのものにある。その価値は、客観性と中立性に根ざしており、その使命は、Amazonのような巨人以外のインターネット、すなわち独立したパブリッシャーや他の小売業者が、巨大プラットフォームと競争するためのテクノロジーを提供することにある 。同社が主導するUID2は、まさにオープンなウェブのための共通通貨を創設しようとする試みである。
そして今、CTVという極めて重要な戦場で、広告予算がAmazonへと大きく流れているという事実は 、多くの広告主にとって、オープンで中立なエコシステムの維持という長期的・哲学的な利益よりも、優れたデータと低コストがもたらす短期的・具体的な利益の方が優先されていることを示唆している。
この現実は、ブランドに対して、重大な長期的戦略の選択を迫る。Amazonへの過度な投資は、データと顧客関係のコントロールを、自社の販売チャネルでありながら競合相手でもある単一の強力なプラットフォームに明け渡すことになり、深刻な依存リスクを生む。一方で、純粋な「オープンインターネット」戦略に固執することは、短期間のパフォーマンスや重要なオーディエンスへのアクセスを犠牲にすることを意味するかもしれない。
したがって、最も洗練されたマーケティング戦略とは、どちらか一方の陣営に与することではない。リスクを管理し、リターンを最大化するために、これら二つの対立するモデルへの投資をいかに戦略的にバランスさせるか。そのポートフォリオマネジメント能力こそが、未来のマーケティング担当者に求められる最も重要な資質となるだろう。
予測3:米国広告市場の底堅い成長とその構造変化
2025年の米国広告市場は、一見すると穏やかな成長軌道を描いているように見える。しかし、その穏やかな表面下では、デジタルと伝統的メディアの間で、資本の劇的な再配分という激しい構造変化が進行している。この変化の本質を理解することが、将来の投資戦略を誤らないための鍵となる。
A. コンセンサス予測:堅実だが、目覚ましくはない成長
2024年の米国広告市場は、夏季オリンピックや米国大統領選挙といった、数年周期で訪れる大型イベントによって大きく押し上げられた 。これに対し、2025年はこれらの周期的要因がなくなるため、市場はより正常化された成長率に戻ると予測されている。
主要な予測機関の見通しは、政治広告を除いた米国広告市場全体で、前年比で中程度の1桁成長という点で概ね一致している。
- Madison and Wall: +6.0%(当初予測の+3.6%から上方修正)
- MAGNA: +4.3%(当初予測の+4.9%から下方修正)
- S&P Global: +4.5%
これらの数字は、米国経済の底堅さを示唆しており、市場が失速するわけではないが、2024年のような熱狂的な成長ではないことを示している。しかし、このトップラインの数字だけを見て市場を判断するのは、極めて危険である。
成長のエンジンルーム:成長ドライバーの解明
2025年の市場成長は、決して一様ではない。その成長のほぼすべてが、Google、Meta、Amazonといった「デジタル・ピュア・プレイヤー(DPP)」によってもたらされる。MAGNAの予測によれば、これらのDPPの広告収益は、市場全体を大きく上回る+9.6%という力強い成長を遂げる見込みである。
このデジタルセクターの成長を牽引するのは、以下の主要な広告フォーマットである。
- 検索広告およびリテールメディア: +10% の成長
- ソーシャルメディア広告: +11% の成長
- デジタルビデオ広告(CTVを含む): +12% の成長
この力強い成長は、安定した失業率と底堅い個人消費に支えられた健全な経済ファンダメンタルズ 、そしてAIの活用による広告効果の向上といった継続的なメディア・イノベーションによって下支えされている 。つまり、広告市場のエンジンは、完全にデジタル領域へと移行したのである。
大きな格差:レガシーメディアからの構造的シフト
市場全体の緩やかな成長率という数字は、その内部で起きている劇的な資本の再配分を覆い隠している。デジタルが急成長する一方で、伝統的なレガシーメディアは厳しい縮小局面に直面している。
- レガシーメディア全体の予測(S&P Global): 2025年は-7.6%の減少。これは、オリンピックや政治広告といった、従来レガシーメディアの大きな収益源であったサイクリカルな需要がなくなる影響が大きい。
- 全国テレビ放送の予測(S&P Global): -8.9%の減少。特に、地上波放送は-12.6%と大幅な落ち込みが予測されている。
この数字は、単なる一時的な落ち込みではない。視聴者がリニア放送(決まった時間に放送されるテレビ番組)から、オンデマンドのストリーミングサービスへと不可逆的に移行している長期的な構造変化を反映したものである。広告費は、視聴者のいる場所へと流れる。この単純な原則が、メディア間の巨大な格差を生み出しているのだ。
この市場全体の成長率が示す数字の裏側を読み解くことが、戦略上極めて重要である。「成長鈍化」という言葉は、統計上の錯覚であり、その実態はデジタルへの資本移動の加速である。
まず、市場全体の成長率(例:+4.3%)は、全く異なる二つのトレンドの加重平均値に過ぎない。それは、約+10%で力強く成長するデジタル広告と、約-8%で大きく縮小するレガシーメディア広告の合成結果である。
次に、なぜ2024年と比較して成長が「鈍化」するように見えるのか。その最大の理由は、2024年に存在したオリンピックや大統領選挙といった周期的イベントが2025年にはないことである。これらのイベントの広告費は、伝統的にリニア放送のテレビ局が大きなシェアを占めてきた。したがって、これらのイベントがなくなる影響は、レガシーメディアに不釣り合いなほど大きく現れる。これがレガシーメディアの対前年比を著しく悪化させ、結果として市場全体の平均成長率を押し下げているのである。
したがって、この「成長鈍化」は、広告経済そのものの弱さを示すものではない。むしろ、周期的イベントの有無によって、レガシーメディアからデジタルへの構造的な資本シフトがより鮮明に、そして加速的に可視化された結果と解釈すべきである。
この分析から導き出される戦略的な示唆は明確である。「市場が減速している」というトップラインの数字に惑わされ、マーケティング予算を削減してはならない。むしろ、今こそ、縮小し続ける過去の遺産(レガシーチャネル)から、現代の広告エコシステムの真の成長エンジンである高成長のデジタルプラットフォーム(RMN、CTV、ソーシャル、検索)へと、資本の再配分を大胆に加速させるべきなのである。このシフトを躊躇するブランドは、縮小する過去に投資し続け、成長する未来に投資する競合他社に決定的な差をつけられることになるだろう。
横断的考察:広告の未来を形作る不可逆的なメガトレンド
これまで分析してきた3つの予測は、それぞれが独立した現象ではなく、広告業界の未来を規定する、より大きな地殻変動の一部である。ここでは、これらの予測を横断的に貫く4つの不可逆的なメガトレンド―「プライバシーのトリレンマ」「プライバシー保護技術(PETs)の台頭」「ウォールドガーデンの審判」「フィルターバブルという社会的インパクト」―を深く考察し、それらがどのように相互作用し、未来の広告エコシステムを形成していくのかを明らかにする。
プライバシーのトリレンマ:パーソナライゼーション、プライバシー、規制のバランス
現代のマーケティング担当者は、解決困難な「トリレンマ(三つのジレンマ)」の板挟みになっている。それは、パーソナライゼーションへの期待、プライバシーへの懸念、そして規制の強化という、互いに相反する三つの要求を同時に満たさなければならないという課題である。
第一に、消費者は高度にパーソナライズされた体験を期待し、それに積極的に反応する。調査によれば、消費者の80%が自身の興味に合わせた広告を好むと回答しており 、パーソナライゼーションはコンバージョン率(CVR)と顧客ロイヤルティを向上させる重要な鍵であることは間違いない 。特に日本においては、KPMGの調査で「パーソナライズ」が顧客体験の最も重要な要素として挙げられており、その期待値は極めて高い。
第二に、その一方で、消費者は自身のデータがどのように収集・利用されているかについて、深い不安と不信感を抱いている。これは「プライバシー・パラドックス」として知られる現象である。日本での調査では、実に7割以上がキャンペーン応募時の個人情報提供に抵抗を感じ、約8割が広告への個人情報利用に不安を覚えているという結果が出ている 。この信頼の欠如は、企業と顧客の関係における深刻なリスク要因である。
第三に、この消費者と企業の間の緊張関係は、政府や規制当局の厳しい視線を集めている。欧州のGDPR(一般データ保護規則)や米国のCCPA(カリフォルニア州消費者プライバシー法)といった強力な規制が導入され、巨大プラットフォームのデータ活用方法に対しては、独占禁止法違反の観点からの訴訟も相次いでいる。
この三つの力のベクトルは、それぞれ異なる方向を向いており、マーケティング担当者は、その間で絶妙なバランスを取ることを強いられている。これが、現代の広告における最も根源的で困難な課題なのである。
新たな基盤:プライバシー保護技術(PETs)
前述の「プライバシーのトリレンマ」を解決する技術的な切り札として、プライバシー保護技術(Privacy-Enhancing Technologies、以下PETs)が急速に台頭している。PETsは、個人情報の直接的な暴露を最小限に抑えながら、データ連携や分析を可能にする技術群の総称であり、プライバシーを重視する新たな広告エコシステムの基盤となりつつある。
その中核をなす主要な技術は以下の通りである。
- データクリーンルーム(Data Clean Rooms): 複数の企業(例:広告主、パブリッシャー、小売業者)が、それぞれのファーストパーティデータを直接共有することなく、安全な環境で結合・分析できる仕組み。広告効果測定の透明性とプライバシー保護を両立させる技術として注目されており、IAB(Interactive Advertising Bureau)が標準化を進めるPAIR(Publisher Advertiser Identity Reconciliation)プロトコルなどもこの一種である。
- セキュアマルチパーティ計算(Secure Multi-Party Computation, MPC): 暗号化技術を応用し、複数の参加者が互いの生データを見ることなく、データを暗号化したまま共同で計算処理を行う手法。これにより、例えば広告主と小売業者が、互いの顧客リストを明かすことなく、共通の顧客に対する広告効果を測定することが可能になる。
- 差分プライバシー(Differential Privacy): データセット全体に数学的な「ノイズ」を意図的に加えることで、個々のユーザー情報を特定できなくしつつ、統計的な分析は可能にする技術。個人のプライバシーを厳格に保護しながら、大規模なデータからインサイトを抽出する際に用いられる。
これらのPETsは、もはや一部の専門家だけが知るニッチな技術ではない。これらは、プライバシーが重視される社会において、責任ある効果的な広告活動を行うための、必須のインフラストラクチャーとなりつつある。
ウォールドガーデンの審判:独占禁止法と自己優遇
Google、Amazon、Metaといった巨大プラットフォームが築き上げた「ウォールドガーデン」は、その内部に膨大なデータを蓄積し、広告市場において圧倒的な支配力を確立した。しかし、その成功は、データの非対称性(プラットフォーム側だけがデータを持ち、広告主はアクセスできない)と透明性の欠如という深刻な問題を生み出し、反競争的な行為への懸念を増大させている。
この状況に対し、世界中の規制当局が厳しい姿勢で臨んでいる。欧州連合(EU)のデジタル市場法(DMA)や、米国におけるFTC(連邦取引委員会)によるAmazon提訴、司法省(DOJ)によるGoogleやAppleへの提訴は、その象徴である 。これらの動きは、巨大プラットフォームの市場支配力に歯止めをかけ、より公正な競争環境を確保することを目的としている。
特に問題視されているのが、「セルフプリファレンシング(自己優遇)」と呼ばれる行為である。これは、プラットフォームが自社の製品やサービスを、検索結果や広告オークションにおいて、競合他社のものよりも意図的に有利に扱うことを指す。複数の調査により、Amazonが自社ブランド製品(例:Amazon Basics)を検索結果の上位に表示するなどの自己優遇を行っていた証拠が指摘されている 。注目すべきは、ある調査で、Amazonが規制当局からの監視が強まった2023年10月に、この自己優遇の度合いを急激に低下させたことが観測された点である 。これは、規制の圧力がプラットフォームの行動に実際に影響を与え始めていることを示唆する、重要な変化である。
社会的インパクト:フィルターバブル論争
現代広告のエンジンであるアルゴリズムによるパーソナライゼーションは、商業的な効率性を追求する一方で、より広範な社会的影響をもたらす可能性が指摘されている。その最も深刻な懸念が、「フィルターバブル」と「エコーチェンバー」の問題である。これは、アルゴリズムがユーザーの過去の行動や嗜好に基づいて、心地よい、あるいは既存の信念を強化する情報ばかりを提示し続ける結果、ユーザーが自分とは異なる意見や多様な情報から知的に隔離され、社会の分断や政治的な二極化を助長するという仮説である。
このテーマに関する学術的な証拠は複雑であり、研究者の間でも意見が分かれている。一部の研究では、この効果は過大評価されており、オンラインメディアはむしろ多様な意見に触れる機会を増やす可能性さえあると主張している 。しかし、最近の大規模言語モデル(LLM)に関する研究では、ユーザーの政治的信条に基づいてモデルをパーソナライズすると、実際に偏った内容が出力されることが示されており、このリスクが依然として存在することを裏付けている。
この議論は、広告業界が長期的に社会から事業継続の許諾(Social License to Operate)を得られるかどうかに関わる、極めて重要な問題である。広告テクノロジーが市民社会の健全な対話を阻害しているという認識が広まれば、それは業界全体に対する深刻な評判リスクとなり、さらなる規制強化を招く引き金となりかねない。
これらのメガトレンドを総合的に考察すると、広告業界が根本的な進化の段階にあることが見えてくる。それは、一方的にデータを収集・利用する「データ抽出モデル」から、プライバシーを保護しつつデータを共同で活用する「データ連携モデル」への強制的な移行である。
この進化のプロセスは、段階的に進行している。
- 旧モデルの崩壊:かつての広告モデルは、広範かつ不透明なユーザー追跡とデータ抽出を可能にする技術を基盤としていた。このモデルは、技術的にも倫理的にも終焉を迎えた。
- 第一の反応:データの囲い込み:プライバシー保護強化への直接的な反応として、あらゆる企業が自社のファーストパーティデータを貴重な資産とみなし、それを内部に囲い込む動きが加速した。これが、本レポートの予測1(リテールメディアの台頭)と予測2(ウォールドガーデンの強化)の背景にある力学である。
- 新たな課題:サイロ化の弊害:しかし、すべてのプレイヤーがデータを囲い込むと、データが「サイロ化」し、分断されてしまう。これにより、広告主はキャンペーンの効果を横断的に測定することが困難になり、大きな非効率が生まれる。これは、予測1で指摘されたRMNの「標準化の欠如」という課題に直結する。
- 解決策の登場:安全な連携:同時に、消費者の不信感と規制の強化(プライバシーのトリレンマ)により、生データをオープンに共有することは不可能になった。この袋小路を打ち破る唯一の実行可能な道が、「安全なデータ連携」である。データクリーンルームのようなPETsは、この連携を実現するための技術的基盤を提供する 。PETsにより、ブランド、パブリッシャー、小売業者は、それぞれが保有する貴重で機密性の高い生データを互いに公開することなく、テーブルを囲んでデータを突き合わせ、キャンペーン効果を共同で測定することが可能になる。
この一連の流れから導き出される結論は、未来の広告における成功の定義が変化するということである。もはや、「誰が最も多くのデータを保有しているか」ではなく、「誰がパートナーのデータと安全に連携するための最良の戦略を持っているか」が競争優位の源泉となる。これを実現するためには、データアーキテクチャ、法務・プライバシーに関する専門知識、そしてパートナーシップを構築・管理する能力といった、全く新しいスキルセットが不可欠となるだろう。
結論と戦略的提言:2025年以降を勝ち抜くためのアクションプラン
地殻変動の統合的理解
本レポートで分析した3つの主要な予測―リテールメディアの覇権、CTV広告の主戦場、米国市場の構造変化―は、個別のトレンドではなく、一つの統一された物語を語っている。それは、広告業界の重心が、ファーストパーティデータ、AI主導のパフォーマンス、そしてクローズドループ測定によって定義される新しいパラダイムへと、不可逆的に移行しているという物語である。この移行は、ますます複雑化する規制と倫理的な枠組みの中で進行している。受動的でリーチベースのメディアバイイングの時代は終わりを告げ、能動的でデータ主導のエコシステム・マネジメントの時代が幕を開けたのである。この地殻変動に適応し、勝ち抜くためには、従来の戦略を根本から見直す必要がある。
広告主と代理店のための戦略的必須事項
この新たな時代において、広告主と広告代理店が取るべき戦略的行動は明確である。
1. リテールメディアをマスターせよ
リテールメディアを単なる広告メニューの一つとして扱う時代は終わった。今後は、より深く、戦略的なパートナーシップを構築する必要がある。具体的には、従来のショッパーマーケティングやトレードマーケティングの予算を、RMNの能力と連携させる形で再配分することが求められる。同時に、広告主は団結し、乱立するRMNに対して測定基準の標準化を強く要求していくべきである。これにより、投資対効果の比較が可能となり、より賢明な予算配分が実現する。
2. DSPのポートフォリオ・アプローチを採用せよ
「ウォールドガーデン vs. オープンインターネット」という二項対立の現実を直視し、単一のプラットフォームに依存するリスクを回避しなければならない。リスクを分散し、キャンペーンの目的に応じて成果を最大化するために、バランスの取れたデュアルDSP戦略(例:パフォーマンス目的にはAmazon DSP、リーチ目的にはThe Trade Desk)を採用することが賢明である。特定のプラットフォームへの過度な依存は、将来的に自社の交渉力を削ぎ、データと顧客関係のコントロールを失うことにつながりかねない。
3. ファーストパーティデータの要塞を築け
自社のファーストパーティデータを、単なるIT部門の副産物ではなく、事業の根幹をなす最重要資産として位置づけるべきである。CDP(カスタマーデータプラットフォーム)のようなインフラと、それを倫理的に収集・管理・活用できる専門人材への投資を惜しんではならない。プライバシー保護が重視される世界において、質の高いファーストパーティデータこそが、他社が容易に模倣できない、最も永続的な競争優位の源泉となる。
C. マーケターの進化する役割:新時代に求められるスキル
このパラダイムシフトは、マーケティング担当者の役割そのものを変容させる。従来のコミュニケーション専門家から、複雑な技術とデータを駆使してビジネスエコシステムを管理するビジネス戦略家へと、その役割は進化しなければならない。この新しい時代に求められるスキルセットは、以下の通りである。
- データ分析能力とストーリーテリング能力: 複雑なデータセットを読み解き、それをビジネスの意思決定に繋がる実行可能なインサイトへと変換し、説得力のある物語として伝える能力が、これまで以上に重要になる。
- AIへの精通とプロンプトエンジニアリング: マーケティング担当者は、AIを自動化、パーソナライゼーション、コンテンツ生成にどう活用するかを深く理解する必要がある。特に、生成AIから望む結果を引き出すための指示(プロンプト)を巧みに設計する「プロンプトエンジニアリング」は、AIツールの性能を最大限に引き出すための必須スキルとなりつつある。
- 戦略的・倫理的判断力: 強力なデータとAIの力は、大きな責任を伴う。未来のマーケティング担当者は、パーソナライゼーション、データプライバシー、AIのバイアスといった倫理的なグレーゾーンを的確に判断し、長期的な顧客の信頼を構築する意思決定を下す能力が求められる。
- 部門横断的なコラボレーション能力: マーケティング、セールス、IT、法務といった部門間の垣根はますます低くなる。未来のマーケティング担当者は、これらの異なる機能を持つチームを束ね、データ主導の統一された戦略を実行するためのリーダーシップと協調性を発揮しなければならない。
これらのスキルは、個別の能力というよりも、相互に関連し合う統合的な能力であり、これからのマーケティング人材の育成と採用における中心的な指針となるだろう。
この新しい時代において、マーケティング担当者に求められる最も価値ある資質は、特定の技術への習熟度ではない。それは、「戦略的プラグマティズム(実践主義)」、すなわち、ウォールドガーデンとオープンインターネットという二つの世界の間に存在する複雑なトレードオフを冷静に評価し、自社にとって最適な解を見つけ出す能力である。
この力学を理解するプロセスは以下の通りである。
- ウォールドガーデン(特にAmazon)は、その壁の内側で比類なきデータと効率性を提供する 。これは、短期的なパフォーマンスを最大化する上で極めて魅力的である。
- オープンインターネット(The Trade Deskが代表)は、中立性、柔軟性、そして長期的なデータのコントロールという価値を提供する 。これは、特定のプラットフォームへの依存を避け、持続可能なエコシステムを構築する上で重要である。
- 普遍的な「正解」は存在しない。最適な戦略は、ブランドの目標(ブランド構築か、ダイレクトレスポンスか)、製品カテゴリー(例:CPGか、自動車か)、そしてリスク許容度(ベンダーロックインのリスクか、運用複雑化のリスクか)によって全く異なる。
- したがって、2025年以降に成功するマーケティング担当者は、どちらか一方のイデオロギーに固執する「信者」ではない。彼らは、両プラットフォームの利点と欠点を客観的に評価し、自社のビジネス目標に合わせてリソースを配分する、冷静な「ポートフォリオ・マネージャー」でなければならない。
この変化は、マーケティング組織のあり方にも変革を迫る。未来志向のマーケティングチームは、従来の役割分担ではなく、新たな専門職を中心に再構築されるべきである。例えば、ウォールドガーデンとオープンインターネットへの投資バランスを管理する「メディア・ポートフォリオ・マネージャー」、RMNやデータクリーンルームを介したパートナーシップを主導する「データ・パートナーシップ・リード」、そして自社のファーストパーティデータ基盤を構築・管理する「マーケティング・テクノロジスト」といった役割が、組織の中核を担うことになるだろう。
これにより、マーケティング部門は、単なるクリエイティブ制作やメディアバイイングの機能から、テクノロジー、データ、そして商業パートナーシップを駆使して測定可能なビジネス成長を牽引する、企業の戦略的ハブへと進化を遂げるのである。
参考サイト
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